
中央区は戦争による被害が最も大きかった地区のひとつで、日本橋区は約50パーセント、京橋区は約20パーセントが焼失しました。物質的な被害だけでなく戦死、戦傷などによる人的な被害も甚大でした。

戦時統制によつて麻痺していた商業機能を戦後いち早く担ったのは露店商たちでした。室町4丁目・八重洲通り・人形町・蛎殻町・月島通り・銀座通り緑地などに露店が立ち並び、主に軍関係者の不正放出品等が売りさばかれました。

問屋街のなかでも最も復興が早かったのは日本橋横山町・馬喰町でした。商品が店頭に山積みされ、仕入れ客は1日に3万人を超していました。これというのも「横山町・馬喰町問屋連盟」が戦後いち早く組織され、地域ぐるみの復興が図られたためでした。
それに引かれるようにして、他の問屋街の復興していき、日本橋は再び日本の商業中心として返り咲いたのです。

戦災や疎開によって、敗戦時には戦前にあった建物の34パーセントが残っただけという銀座でしたが、江戸時代からの火事慣れのためか、戦時統制が解除されるにしたがって復興も順調に進んでいきました。
しかし、戦前のような街並みが再現されたわけではありません。かつては老舗が軒を並べ、ダンスホールやカフェー、デパートが点在するという感じでしたが、戦後は飲食店などが主になり、デパートやそれに類したビルも増えました。戦前からの松屋・松坂屋・三越を追って、小松ストアー・三愛・名鉄メルサ・ニューメルサ、少し離れて阪急・ソニービル・プランタン銀座などが建てられました。
一時期、こうしたデパートより人気を呼んだのが「みゆき通り」でした。舶来品を扱う店が20数軒かたまってあり、外国人もよく通るということもあって外国めいた雰囲気があったそうで、「流行の流行」をつくる街と呼ばれていました。
銀座の活気がなくなったと、よく言われます。戦前はどの商店も夜遅くまで営業していましたが、現在は、労働基準法の規定によって9時頃までに閉めてしまう店が多く、バー・レストランなどが多い裏通りはともかく、表通りは夜遅くなると開いている店もあまりなく、行き交う人もまばらです。
しかし、日曜の人出を見ると、やはり商店街の王者の地位は揺るぎないものだと感じられます。歩行者天国が最初に実施されたのは昭和45年のことですが、以来、毎土・日曜・祝日には大通りが歩行者に開放され、家族連れを中心に広い通りが人で埋まり、賑わいを見せています。

銀座以外の商店街で最も発展したのは何といっても八重洲地下街でしょう。オフィス関係者が、昼休みや帰りがけによく利用しています。
地元と密着した商店街ならやはり人形町です。戦災をほとんど受けなかったこともあって古い店も随分残っています。月島の商店街のように町の人々に支えられている商店街もそれぞれ独自な発展を遂げています。
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