[北遊人]
2011年11月 5日 08:30
東日本橋2丁目ちょうど薬研堀不動院の後ろに、矢ノ庫稲荷神社があります。
此の度の"薬研堀不動院開創420年"にあわせ、新社殿が奉納されました。

奉納碑がたてられています。

縁起は前のままです。

ご紹介します。
縁起
今の隣接する東日本橋1丁目あたりが谷野と呼ばれていた頃、正保2年(1645)幕府が米蔵を建て
谷野蔵、矢之倉と称されていました。その庭中に御蔵の鎮神として三社を合殿した三社稲荷神社を
まつりました。三社は中央に谷野蔵稲荷、左に福富稲荷、右には新左衛門稲荷からなりたっておりましたが、50年ほど経て元禄11年(1698)に御蔵を鉄砲洲に移転すると共に三社稲荷を一緒に移されました。御蔵の後地に居住する人達がその名を惜しんでそこに三社稲荷を残し今も尚東日本橋一丁目に「矢ノ庫三社稲荷」として祭られております。後年明治6年(1873)に「新左衛門稲荷」が、
昭和7年(1932)には「福富稲荷」が当町にある「初音森神社」に遷座合祀されたと伝えられ、残る
「谷野蔵稲荷」は、幾多の変遷、場所を変え現存地にその社を構えるに至りました。その名称に使われている文字もいつの頃から「矢ノ庫稲荷」と特に「庫」の字を強調した呼称に改められました。
祭神は三社稲荷神社と同様「宇賀魂命」と考えられ御神体は勿論現存しないわけですが「翁の形で
手に鎌と稲穂を持つ」と伝えられております。
昭和53年2月 矢ノ庫稲荷世話人
(現在地の地番は東日本橋2丁目です)
米蔵の件については、日本橋中学校舎の西南角に「矢ノ倉」の碑が建てられています。

右側には建てた趣旨が書かれています。
趣旨
由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜しむの余り旧跡として後の世の人々の語り草ともなればと、町内有志が相寄って町会記念事業として、この碑を建立したものである。
東日本橋1丁目矢ノ倉町会有志一同
左側には由来が書かれている。

由来
江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保2年(1645)徳川幕府が米倉を建て、これを谷之
御蔵と称した。元禄11年(1698)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末まで
この地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり、柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治5年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。昭和46年4月1日住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋1丁目となった。
江戸時代からの旧町名の保存を記念としてこの碑を建立する。
昭和50年11月3日
( この辺りは、町会はみな旧町名です。またお米屋さんも多く存在しています。)
[坂の上のねこ]
2011年11月 4日 08:30
文化の日の今日、佃から隅田川沿いにてくてくと散歩を楽しみながら北上し、日本橋中学校の文化祭に行ってきました。

日本橋中学校のブラスバンド部は全国大会に出場する実力派。校内に入ると「本当に中学生が演奏しているの?」とびっくりするほど素晴らしい演奏が聞こえてきました。
会場では、中央区観光協会による、中央区観光検定模擬問題体験イベントも開催。

せっかくの機会なので私も挑戦。問題は全部で10問、中には難しいものもあったのでドキドキしつつ採点してもらうと・・結果は満点!観光協会特派員の面目躍如。
本番の試験は来年2月12日に行われます。詳しくは中央区観光検定公式サイト をご覧下さい。
<おまけ>
日本橋中学校の近くには、かつてのこの地域の地名「矢ノ倉」の由来とその記念碑があります。

[北遊人]
2011年10月28日 16:00
今日は、10月28日、今日明日の二日間法要に合わせワゴンセールも行われています。
御幸通り側の参道入り口です。

本堂です。
お参りをしましたら、かわいいストラップを頂きました。
2日間頂けるそうです。

隣りで、三門 柳 師匠が浪曲を披露していました。

植込みでは、法要の準備がなされていました。
左手が、順天堂大学のもの、右手が講談協会のもののようです。

中央区観光大使・ミス中央の方たちもおいでいただきました。

本堂の真後ろにある矢ノ庫稲荷も新装成っていました。
[与太朗]
2011年10月28日 08:30
身はたとひ武蔵の野辺に朽(くち)ぬとも 留め置(おか)まし大和魂 二十一回猛士(吉田松陰)
数多くの維新の志士を育てた幕末の革命思想家、吉田松陰(1830-1859)が伝馬町牢屋敷(現在の日本橋小伝馬町3~5)で処刑されたのは、安政六年の十月二十七日正午近くのことでした。
この年五月に萩の野山獄から幕命で江戸送りとなり、七月九日、幕府評定所に呼び出され、伝馬町に入獄。梅田雲浜との関係などの嫌疑は晴れるが、老中間部詮勝要撃策を開陳してしまい、死罪に処せられます。斬ったのは山田浅右衛門(七代吉利)、彼は松陰の最期を堂々として見事だったと伝えています。松陰の遺骸は門人等により、小
塚原から荏原郡若林村(現在の世田谷区若林)に葬られます。ここは毛利家の抱地だった所で、のちに明治15年には墓畔に松陰神社が創建されます。明治40年には萩にも松陰神社が創建されますが、ともに御祭神はもちろん吉田松陰(吉田寅次郎藤原矩方命)、例大祭日は10月27日となっています。
松陰の伝馬町下獄は下田密航未遂事件(安政元年)のあと以来二度目でしたが、一度目同様友人・門人による差し入れのおかげでけっこう厚遇されたようです。牢名主の沼崎吉五郎や獄卒の金六らは松陰に敬意を払い、助けとなってくれました。冒頭に書いた辞世で始まる遺書の『留魂録』の一冊は沼崎に託され、萩の松陰神社に現存しています。
伝馬町牢獄は明治八年に廃されますが、跡地は忌まわしい土地として住む人もなく、(長谷川時雨の父がただでくれるとい
うのを断った話が『旧聞日本橋』にあります。) 寺院・公園・学校が出来てきます。現在は大安楽寺などの寺院・十思公園・十思スクエアになっています。松陰の辞世を彫った碑が十思公園の北東側に。牢屋敷の東南隅にあった処刑場の跡には大安楽寺の延命地蔵尊、山岡鉄舟書「為囚死群霊離苦得脱」の鋳物額がお地蔵さまの足元に見えます。
十思公園ではお昼ともなると近所にお勤めの方がお弁当を食べたり、新聞を広げたり。昔の忌まわしい場所も今では明るい憩いの場所になっています。
[ 写真上 ] 十思公園の吉田松陰終焉の地碑(右)など
[ 写真中 ] 写真上の中央、松陰辞世の碑
[ 写真下 ] 大安楽寺の延命地蔵尊
[織衣舞]
2011年10月22日 08:30
今年の人形市は例年にくらべて
手作り
の
お店が多かったように思います。
グループで
の参加だったり、自治会の
集まりだったりと
それぞれの特徴・個性が
でていたようです。
東北・会津からもお守りの赤べこが出品
されていました。
これも応援したくなりました。
体験コーナーもありました。
いろいろ教えていただけるようでした。
人形もグローバル化しているようでした。
来年はどんな方向に進むのか楽しみです。
[織衣舞]
2011年10月21日 15:47




11月19~20日べったら市がありました。椙森神社・宝田神社を中心に繰り広げられいました。
椙森神社では舞台で笛・太鼓の神楽があり、聴き入る聴衆も多かったです。宝田神社では歌舞伎
役者の奉納が多くありました。係りの方に尋ねると昔からということでした。
べったらはもちろん多くの屋台で扱っていました。たこやき・おでん・やきそば・ビールなどの屋台も
たくさんでていました。七味とうがらしの店も多かったです。あと洋服・日用品のお店もでていました。
多くの人がこのイベントにかかわっています。いつまでも続く愛される行事であってほしいです。