[ゆりかもめ]
2011年6月27日 08:30
素敵な公園・・・・・桜川公園を見つけました。 中央区入船 1-1-13です。
江戸時代に京橋川の下流から隅田川へ流れ込む通船堀として開削されました。
八丁堀(明治時代は桜川と改称)と呼ばれていました。
この桜川の埋立地に出来た公園です。
JRとメトロ日比谷線「八丁堀駅」に隣接しています。
御存知の方も多いと思いますが、いろいろな石がコンクリートの中に埋め込まれていて、裸足でこの上を歩くと健康に良いようです。
もう10年以上も昔の事ですが私が台北に住んで居た頃、国父記念館の敷地の裏の方にこのような石の道がもっと長く造られていました。
歩いてみると最初は大変に足裏が痛かったのですが痛いのを我慢して歩いていると痛くなくなってきました。
足裏のマッサージのつもりで内臓のいろいろな部分を刺激する・・・・・と説明にあり、暇だったので一人でよく歩きました。
私にとっては台北を思い出すこの小さな道を発見して懐かしさで一杯でした。

このモニュメントは何を意味しているのか分かりませんがその内に調べて見たいと思います。

こんな可愛い遊具がありました。
若いお母様が2歳位の坊やと楽しいひとときを過ごしていらっしゃいました。
許可を得て写真を撮らせて頂きました。
アメリカに居る孫が来たら此処に連れてきて遊ぼう・・・と思いました。
合歓(ネム)の葉は昼間は開いているのに夜になると葉を閉じて眠ってしまう・・・と小さかった頃に頭の中にインプットしたままでしたがピンク色の優しい花が咲きます。
浜離宮でも咲いていますが桜川公園の合歓の花は今がとても綺麗です。
合歓・・・・この字も皆が一緒に歓び合う様で柔らかく楽しい感じがします。

[織衣舞]
2011年6月21日 09:00
「東海道四谷怪談」の主人公お岩さんの伝承を持つ神社(1879創建)と
きいていたので怖くて行けなかったのです。
しかし、怨霊とお岩さんの関係は全くの誤解だったことがわかりました。
(私だけでしょうか?)
お岩さんの健気な働きで家が栄え、その幸運にあやかろうと人々がお参りし、人気があったのを、鶴屋南北さんが戯曲の主人公にしたてたということらしいです。鶴屋南北さんにいっぱいクワされた感じです。
鳥居・お百度石は区民有形民俗文化財に登録されています。
[ダンディ松]
2011年6月10日 15:30
現在の中央区には、かつてお江戸の時代に「日に千両がおちる場所」があったのをご存知でしょうか。
いずれもたくさんの人が集ること場所であることから、大量の銭が使われることを意味しています。
そんな場所が下記の三ヶ所だったのです。
(一)日本橋河岸の魚河岸
(二)日本橋堺町・葺屋町の芝居町
(三)傾城町として栄えた吉原(新吉原)
※江戸で最初の芝居小屋は寛永元年に猿若座が京橋に櫓を上げた事が始まり、その後幕府の命により禰宜町(ねぎまち、現在の日本橋堀留町)、堺町(現在の人形町)へと移転している。
さて傾城町・吉原はもともと現在の人形町界隈にあったのですが、あの明暦3年(1657)の江戸の大火「明暦の大火(振袖火事)」の後、万治2年(1659)に現在の淺草裏へと移転したのです。そして万治2年には隅田川に最初に架橋された大橋(両国橋)がこの年の12月13日に竣工しています。
今日のお題「高尾稲荷神社」には、この万治2年に起こった新吉原の妓楼「三浦屋」の二代目太夫・仙台高尾の悲しいお話が伝わっています。私にとっての仙台高尾のイメージが今人気のテレビドラマ「仁ーJin」に登場する花魁「野風」とダブってしまいます。
落語の「仙台高尾/浮世床」のまくらで語られる一節。
「えー、ェッ、昔からこの、人は名を残したいと言う事を申しますが。まァ、ァーッあの人が何をしたと言う、名前が残ると言うのはこれはまァ、ァーッ、容易ではございませんが。えー徳と言うものが無いとまァ名は残らないと申しますが。花魁なぞで、ェーッ、名を残したのが随分ございますが。えー、昔はこのォ、ォーッ吉原では松の位なんと言いまして、え大変見識を売りましたものだそうで。でお客様の方も、ォッ高い金を払って、その見識を喜んで買いに行ったと言う。」なんて調子で始まる噺ですが......。
この噺を要約すると、仙台六十二万石伊達綱宗が三浦屋の万治の二代目高尾、いわゆる仙台高尾を身受して、のちに芝の下屋敷へ舟で連れていく途中、三つ又(隅田川の現在の清洲橋と永代橋の間にあった砂洲)で吊るし斬りにしたという巷説があるんですね。(左:現在の三ツ又付近)
高尾には島田重三郎という情人があったので綱宗のいうことを聞かず、意地になった綱宗が高尾の体重と同じ重さの黄金二十貫で身請けしたという俗説もあります。
高尾の遺体が数日後、この地大川端(隅田川)の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構えていた僧が居合わせて引き揚げ、手厚く葬ったといわれます。高尾の不憫な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て、彼女の神霊・高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたというのが当社の起縁です。
稲荷社としては全国でも非常に珍しいことに、現在この社には実体の神霊(実際の頭骸骨)が祭神として安置されているのです。
高尾稲荷の場所(中央区日本橋箱崎町:IBM社屋のすぐそば))
明治のころ この地には稲荷神社および北海道開拓使東京出張所(後に日本銀行開設時の建物)があったそうです。 その後現三井倉庫の建設に伴い社殿は御神体ともども現在地に移されました。
高尾が仙台侯に贈ったといわれる句
「君は今駒形あたり時鳥(ほととぎす)」
尚、仙台高尾の墓は台東区淺草の春慶院(浄土宗)の檀家墓地の入口の脇に置かれています。
[ゆりかもめ]
2011年6月 3日 08:30
雨が降ったり止んだりの中・・・・・・
浜離宮の紫陽花の中で真っ先に元気よく咲くのは原種であるブルーの山紫陽花です。
船着場近くに咲いて居ます。

バイカウツギ(梅花空木)
清楚な4弁の花が梅の花に似ているので「梅花空木」と名がついたそうです。
仄かな香りがあります。
※ 梅の花は5弁です。
ヤエザキバイカウツギ(八重咲梅花空木)
船着場付近で咲き山紫陽花と共に美しさを競っています。
桜の実
桜の木の下を注意してみると庭園の中ではこんなに綺麗な「桜の実」を見つける事が出来ます。
葉陰ごしに太陽を受けている「桜の実」が宝石のように見えました。
ヒメタイザンボク(姫泰山木)蕾
この蕾を見つけ、もうすぐ咲くのだと思うとドキドキして写真を撮りました。
北米が原産で「ルイジアナ州」や「ミシシッピー州」の洲花になっています。
アメリカの第18代大統領のグラントさんが公務を離れ家族と共に世界一周の旅をなさった時、
浜離宮の延遼館に2ヶ月滞在し明治天皇にも御会いになった記録が残されています。
その時夫人が植樹した泰山木が今も上野公園に現存し碑が建てられています。
ヒメタイザンボク(姫泰山木)の花
咲いた時は白いのですが少しクリーム色に見えるのは何日か経ってしまったからです。
とても良い芳香があり近づくと「別世界かな???・・・・」と思う程です。
花木園にあるこれは園芸種なので花の直径は10cm程ですが本当の花は15cm~25cmの大きな花を咲かせます。
浜離宮恩賜庭園
東京都中央区浜離宮1-1
電話 03-3541-0200
[ゆりかもめ]
2011年5月27日 10:00
暫く日本を離れて居り久し振りに浜離宮を訪ねましたら心地よい初夏の風が吹いていました。
ヤマボウシ カシワバアジサイ 桑の実等・・・・・・多くの花々が私を迎えてくれました。
 写真0015-thumb-autoxauto-6160.jpg)
山法師(ヤマボウシ)
ヤマボウシの名は中央にある円形の小さな花の部分を僧の頭に見せて、花びらのように見える白い総苞片(ソウホウヘン)を頭巾に見立てて名がつけられました。
街路樹等で多く見られる「ハナミズキ」はヤマボウシ」とよく似ているので「アメリカヤマボウシ」とも云われています。
地方によってはヤマボウシが咲き出したら田植えを始める風習が今も残っています。
10月には実が赤く色づき食べられます。
ハナミヅキの実は食べられません。
写真0020-thumb-autoxauto-6162.jpg)
柏葉紫陽花(カシワバアジサイ) 北米原産
葉が柏の葉に似ているところから名がつきました。
この葉は秋には真っ赤に紅葉します。
花木園に植えられています。
今が見ごろです。
桑の実
八代将軍吉宗は現在の野外卓広場を実用的に使用し実験の場としました。
甘藷を植えたり薬草を植えたり、刀鍛冶を作ったり狼煙を上げたり塩を作ったり・・・・
桑の木を植え蚕を飼って機織小屋で絹の布を作り桐の箱に入れて大切な御客様の御土産にしたりしました。
その時の名残で今も野外卓広場には桑の木があります。
良く熟れた実を一粒、口に入れてみました。
甘くて美味しい・・・・・懐かしい味です。
他にボケの実 梅の実 モミジの実 ヤマブキの実・・・・等 実とつけた木々が幾つかあります。
ユリノキ
ユリノキは明治初頭に渡来し街路樹として多く植えられています。
原産地は北米で木の高さが50m~60m、直径は3mにも達します。
アメリカインディアンは昔、この木をくり抜いてカヌーを作っていたそうです。
花の形がチューリップに似ているので「チューリップツリー」とも呼ばれます。
葉の形が職人の着る「ハンテン」に似ているので「ハンテンボク」とも云われます。
蕾しか撮る事が出来ませんでしたが黄色い大きな花です。
内堀広場に咲いています。
浜離宮恩賜庭園 東京都中央区浜離宮1-1
サービスセンター 03-3541-0200
[ダンディ松]
2011年5月18日 08:30
土曜日の兜町は人通りも絶え、静かな雰囲気を漂わせています。江戸橋から兜町へと向う道すがら、日本橋川を臨む橋の袂には昭和5年に竣工した三菱倉庫がまるで河岸に係留されている大きな船のような姿を現します。
三菱倉庫を廻りこむように東証アローズへと歩を進めると、すぐ左手に現れる小さな社が「兜神社」です。首都高速の柱と橋げたに覆われるように佇むこの社こそ、この地が「兜町」と呼ばれる由来となった伝承が残されているのです。
そもそもの縁起が平将門の兜と言われているのですが、今からおよそ1070年ほど遡る頃の承平の乱で、藤原秀郷が将門の首を京へ運ぶ途中にこの地で将門の首に兜を添えたのですが、その際に兜だけを土中に埋め、そこに塚を造り供養したと伝えられています。そしてこの塚を兜山と呼び、この場所に神社が建ちいつしか岩だけが残ったのが一番古い伝承の話のようです。
その他、1050年代に起こった前九年の役で源義家が奥州征伐へ向かう途中にこの地の岩に兜をかけて戦勝を祈願を祈願したとか、1080年代の後三年の役で奥州から凱旋した源義家が東夷鎮定の祈願のため兜を楓川の辺に埋めてそこに塚を作ったとか、さまざま伝承が残っているのが「兜神社」です。
※楓川はかつて存在した川です。日本橋川の兜町付近で南へ分流し、これもかつての京橋川と桜川の合流地点に至る約1.2キロの運河だったのですが、昭和35年に始まった埋め立てでその姿は消滅してしまいました。
兜神社を後に、証券取引所(東証アローズ)の西側にある見学者受付の前を過ぎると、その角にいかにも昭和初期のレトロ感漂わせる建物が目に入ってきます。兜町のド真ん中、周囲の高層のビルの谷間に人知れず佇んでいるといった表現がぴったりの古き時代を思い起こさせるような建物なのです。
実はこの建物は現在もきちんと営業をしている「山二証券」で、見る方向によって3階建て、又は2階建てに見える趣ある建造物です。竣工時期は昭和11年ということですから75年前の歴史的建造物なのです。1階部分はおそらく御影石を積み重ね、2階、3階部分の外壁は煉瓦造りという凝った意匠。3階部分の丸窓はまるでバラ窓のようで教会のステンドグラスを思わせ、建物全体を覆う屋根瓦は適度な傾斜をもち見事なバランスを描きだしています。一瞬、ヨーロッパの旧市街の一角に迷い込んだような空間を愉しめます。
そしてこの山二証券の隣にもう一つ同じようにレトロ感を漂わす建物
があります。この建物も証券会社さんで、ちょっと前までは「成瀬証券」の看板が掲げられていました。建物全体は御影石を積み重ねた重厚感のあるどっしりとした造りが特徴です。竣工時期は昭和10年ですからこれも75年の歴史を刻んでいます。
現在はシンガポールの財閥系証券会社「フィリップ証券」と商号を変えています。正面ファサードは左右対称を基調にしたもので、いたってシンプルなデザインの中に直線の美しさと力強さを感じます。正面入口にはこれまたレトロ感を漂わす外灯が備わって、ファサードにアクセントを付けています。たまたま社員の方がいたのでお話を伺った
のですが、床は大理石ですかと聞いたところ、以前は木製の床だったのですが、コンピューターの普及によりランケーブルの配線を隠すため床を上げ、現代風の絨毯張りに変わったとのことです。それでも裏手の入口から中を覗くと、床は細かいタイルが敷き詰められ、木製の柱や上階へとつづく階段には70年以上の歴史を刻み込んだ「いぶし銀」の輝きを感じることができました。
古い建物が取り壊されモダンな姿に変わる大都会の中で、昭和初期の建造物がいまだ健在であることに感動を覚えると同時に、古いアルバムを見ているような懐かしさを感じた瞬間でした。