[与太朗]
2011年10月28日 08:30
身はたとひ武蔵の野辺に朽(くち)ぬとも 留め置(おか)まし大和魂 二十一回猛士(吉田松陰)
数多くの維新の志士を育てた幕末の革命思想家、吉田松陰(1830-1859)が伝馬町牢屋敷(現在の日本橋小伝馬町3~5)で処刑されたのは、安政六年の十月二十七日正午近くのことでした。
この年五月に萩の野山獄から幕命で江戸送りとなり、七月九日、幕府評定所に呼び出され、伝馬町に入獄。梅田雲浜との関係などの嫌疑は晴れるが、老中間部詮勝要撃策を開陳してしまい、死罪に処せられます。斬ったのは山田浅右衛門(七代吉利)、彼は松陰の最期を堂々として見事だったと伝えています。松陰の遺骸は門人等により、小
塚原から荏原郡若林村(現在の世田谷区若林)に葬られます。ここは毛利家の抱地だった所で、のちに明治15年には墓畔に松陰神社が創建されます。明治40年には萩にも松陰神社が創建されますが、ともに御祭神はもちろん吉田松陰(吉田寅次郎藤原矩方命)、例大祭日は10月27日となっています。
松陰の伝馬町下獄は下田密航未遂事件(安政元年)のあと以来二度目でしたが、一度目同様友人・門人による差し入れのおかげでけっこう厚遇されたようです。牢名主の沼崎吉五郎や獄卒の金六らは松陰に敬意を払い、助けとなってくれました。冒頭に書いた辞世で始まる遺書の『留魂録』の一冊は沼崎に託され、萩の松陰神社に現存しています。
伝馬町牢獄は明治八年に廃されますが、跡地は忌まわしい土地として住む人もなく、(長谷川時雨の父がただでくれるとい
うのを断った話が『旧聞日本橋』にあります。) 寺院・公園・学校が出来てきます。現在は大安楽寺などの寺院・十思公園・十思スクエアになっています。松陰の辞世を彫った碑が十思公園の北東側に。牢屋敷の東南隅にあった処刑場の跡には大安楽寺の延命地蔵尊、山岡鉄舟書「為囚死群霊離苦得脱」の鋳物額がお地蔵さまの足元に見えます。
十思公園ではお昼ともなると近所にお勤めの方がお弁当を食べたり、新聞を広げたり。昔の忌まわしい場所も今では明るい憩いの場所になっています。
[ 写真上 ] 十思公園の吉田松陰終焉の地碑(右)など
[ 写真中 ] 写真上の中央、松陰辞世の碑
[ 写真下 ] 大安楽寺の延命地蔵尊
[巻渕彰/写楽さい]
2011年10月18日 08:30
中央区郷土天文館(タイムドーム明石)では、日本橋が現在の石橋に架け替えられて、今年で100周年を迎えたことから、特別展「日本橋-人をつなぐ・時代をつなぐ-」を開催している。会期は10/15~11/27、入場無料。
日本橋の創架は江戸開府の慶長8年(1603)とされる。名が示すように日本を象徴する意味が込められたのだろうか。五街道の基点ともなり、この地域は交通や商業など江戸御城下町の中心地として発展をしていった。橋梁は何度も架け替えられ、現在の橋が明治44年(1911)、石橋として改架されたときも、帝都の象徴としての役割を担い、堅牢でしかも近代的な橋として建造されたのであった。この成果か関東大震災や戦災の被害を受けながらも倒壊をまぬかれて、現在もその偉容を持ち続けている。平成11年(1999)、国の重要文化財に指定されたことは近代遺産としての価値が認められたことになる。今年4月には滝の広場たもとに船着場が完成し、双十郎河岸と名付けられた。
特別展では創架からの歴史をたどり、資料や古文書などが展示され、日本橋やその地域の概況を総観することができる。
会場は、4つのテーマに分かれ、第1章 石橋・日本橋100年、第2章 江戸時代の日本橋、第3章 日本橋とその周辺、第4章 移りゆく日本橋(昭和~現代)――となっている。
また、関連事業として特別講演会や現地見学会、シンポジウムが予定されている。●巻渕彰
○詳しくは、中央区HP こちらへ
[ジミニー☆クリケット]
2011年10月 3日 17:00
長崎屋 今に出るよと 取りかこみ(当時の川柳)
日本橋本石町長崎屋
(葛飾北斎)
江戸の庶民は、日本家屋の中にいる南蛮人に興味津々のようです。
肩車をして、子供に見せようとしているお父さんもいます
これは、年に一度(江戸後期には、四、五年に一度)、長崎の出島から江戸にやって来るオランダ商館長(カピタン)一行が泊まっている長崎屋(日本橋室町4丁目2番地付近)です。
一行の滞在中には、この建物に江戸の学者や文化人が訪れて、カピタンに随行した医師や学者から、西洋文明の知識を吸収していたそうです。
一方、随行した学者たちも道中見聞した日本の文化や動植物を観察し記録し、本国に帰ってから本にまとめて発表したりしています。
ドイツ人の医師で博物学者のシーボルトもその一人で、江戸滞在中、蘭学者に面談し、指導して、影響を与えています。

このシーボルトの像が、中央区のあかつき公園(築地7-19-1)にあります。
シーボルトの娘いねの開いた産院がここ築地にあったそうです。

背景に見えているのは、聖路加タワーです

長崎屋はもうありませんが、長崎屋跡のプレートが、江戸通に面したJR新日本橋駅4番出口に立っています。
鎖国下の江戸にあって、日本橋の長崎屋は、世界を見ることのできる唯一の窓だったんでしょうね

長崎屋については、「それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿日本橋長崎屋」(片桐一男、吉川弘文館)に詳しいです
[与太朗]
2011年9月30日 09:00
宗達・光琳に続く「琳派」第三の巨匠、酒井抱一(1761-1829)。「江戸琳派」の祖ともいわれる彼の墓が築地の本願寺にあるのをご存じの方も多いでしょう。寛政九年(1797)、江戸に下向した京都西本願寺の門主・文如上人のもと、彼は築地本願寺で出家得度したのでした。でも、抱一と中央区のご縁はこれだけではないのですね。

抱一上人(酒井忠因(ただなお))は宝暦十一年(1761)、姫路藩主酒井雅楽頭家嫡子の次男として神田小川町の酒井家別邸で生まれ、江戸城大手門前の上屋敷で成長しますが、寛政二年(1790)三十歳のとき、箱崎の中屋敷に移り、数年を過ごします。中屋敷は稲荷堀(とうかんぼり)の東側、現在の日本橋人形町一丁目と日本橋蛎殻町一丁目にまたがり、日本橋小学校あたりから新大橋通りを越え、日本橋箱崎町の手前、首都高速道路あたりまで、というかなり広いものでした。(ここは明治維新後は西郷隆盛の屋敷になったそうです。)
彼は絵画のみならず俳諧や狂歌など文芸の世界でも類まれな才能を発揮しましたが、中屋敷時代の句集『梶の音』では「筥崎(はこざき)舟守」なる号を使っているそうです。抱一の住まいというと晩年の充実した作品を産み出した根岸の「雨華菴(うげあん)」が有名ですが、今でいえば「中央区民」だった時期もあったのですね。
この抱一が生まれた宝暦十一年から今年でちょうど250年。今年初めには出光美術館、畠山記念館で関連の美術展がありましたが、夏以降「生誕250年記念 酒井抱一と江戸琳派の全貌」という、代表作が並ぶ大規模な回顧展が姫路・千葉・京都と巡回して開かれます。残念ながら都内の開催はありませんが、首都圏では千葉市美術館で10月10日から11月13日まで開かれます。私与太朗も築地のお墓にお参りしてから千葉まで足をのばし、抱一の粋と雅を楽しんでこようと思っています。
[写真上] 酒井家中屋敷跡の中央を横切る新大橋通り
[写真中] 築地本願寺の抱一の墓
[写真下] 切手になった(1970)代表作「夏秋草図屏風」(部分)