[巻渕彰/写楽さい]
2012年2月 2日 08:30
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で、企画展「銭!ぜに!ゼニ!~中央区から出土したお金たち~」が開催されている。慶長17年(1612)、銀貨鋳造の銀座役所が新両替町(現在の銀座二丁目付近)に設置されて、ことしは「江戸銀座開設400年」にあたる。会期は1/28-2/26、月曜日休館、入場無料。
中央区には江戸期、金座と銀座が置かれたが、銭座は存在しなかった。
金座は江戸、京都、佐渡、駿河に開設された。江戸金座は日本橋本町で現在の日本橋本石町、日本銀行本店の場所である。江戸開府とともに初代後藤庄三郎光次(みつつぐ)のもとに金貨鋳造がされ、以後、後藤家が世襲した。
銀座の開設場所は江戸、京都、大坂、長崎であった。江戸に置かれたのは慶長17年(1612)で、現在の銀座二丁目あたりである。銀貨鋳造は代々、大黒常是(だいこくじょうぜ)が請け負った。江戸後期、展示解説によると、享和元年(1801)〔(注)現地の中央区教育委員会設置説明板には、寛政12年(1800)と掲載されている〕に日本橋蛎殻町(現日本橋人形町)へ移った。鋳造を江戸に統一した公儀組織となり、蛎殻銀座と呼ばれた。維新後の明治2年(1869)、金座とともに廃止された。
江戸期の貨幣制度は「三貨制度」で、金貨・銀貨・銭貨が流通した。「江戸の金遣い・大坂の銀遣い」といわれるように、東国と西国では通貨の使い方に違いがあったようだ。
展示では、区内の遺跡発掘現場から出土した貨幣が並ぶ。金貨は日本橋一丁目では宝永一分金、八丁堀二丁目からは天保一分金などが見つかっている。銀貨は少なく、明石町から嘉永一朱銀が出土したそうだ。銭貨は広く一般に流通した銅製貨幣で、「寛永通宝」が多数出土した。ひとくちに寛永通宝といっても、何と6種類もあるという。その違いを展示会場で確かめてはいかがだろうか。ほかに渡来銭や雁首銭、模造銀貨も出土している。
貨幣は代金決済に使われただけではなかった。墓に埋められたり、トイレ(埋め甕)に沈めたり、穴蔵、植木植栽跡などからも見つかっているという。まだどこかに埋蔵金が眠っているかもしれない。町人、職人、商人そして武家たちが暮らした江戸。出土した貨幣は何を語っているのだろうか。
会期中、学芸員によるギャラリートーク(展示解説)が2月4日・18日の各土曜日、午後2時から1時間、参加費無料で開催される。●巻渕彰
○詳しくは、中央区ホームページ >>こちら
[滅紫]
2012年2月 2日 08:30
入館までの待ち時間30分、「清明上河図」前で210分という報道にビビッてはいたものの展示期間終了が近づいてきた雪の日の午後、東博に出かけました。
「入館待ち0分」を見た時は読みが当たったとほくそ笑んでいたものの、「清明上河図」前はそれでも180分待ち。
「清明上河図」の列の隣のレーン?から覗き見て雰囲気だけ感じて退散。それにしてもこの混み方は異常。「東博は貸出料にいくら払ったのか」と余計なことが気になりました。
ご高承の通り、「清明上河図」は北宋の徽宗皇帝が12C初めの開封(人口150万人)の都の繁栄振りを絵巻に描かせたものです。24cm、5mの絵巻に描かれた人は777人、人は5mm程度の大きさです。唐突な終わり方をしているので続きがあったのでは?と云われているようです。
そういえばと「熈代勝覧」を思い出しました。>ご存知の方も多いかと思いますが、こちらは地下鉄三越前駅の地下コンコース壁面に複製が約17mに渡り設置されています。
これは文化2年(1805年)当時の日本橋から今川橋までを東から俯瞰し、町人文化を克明に描いたものです。原画はたて43.7cm、長さ1232.2cm、地下鉄コンコースにあるのはこれを1.4倍に制作したもの。2009年に名橋日本橋保存会、日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会によって制作されました。
原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。1995年にベルリンの収集家が美術館に寄託し、1999年学芸員が日本の作品と確認したそうです。収集家に渡るまでの経緯は一切不明。資料によれば題字は書家佐野東洲ということがわかっているものの、絵師については現在のところ不明で北尾政演の名で絵師としても活躍した山東京伝ではないかという説が一般的とのこと。
「熈代勝覧」は熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観ーという意味で印から「当時の江戸の繁栄を後世に残す目的で制作された」と考えられているそうです。
では絵巻の一部を。

絵に登場する人物は1671人(誰が数えたの?!)
そのうち女性200人、人以外は野犬20匹、ウマ13頭、牛車4両、猿1匹、鷹2羽。買い物客、振り売り、辻占、読売、僧侶などがヴィヴィッドに描かれています。
説明によるとこの絵の真ん中で塗りの蒸篭様のものを重ねて持っているのは寿司売りだそうです。
細密な描写なので見ていても飽きません。
美術館と違って混雑もありませんのでゆっくりご覧になれます。おまけに入場料も不要です。江戸文化が一番成熟した時期の江戸の町にタイムスリップしてしばしの間遊んでみませんか。
場所:地下鉄三越前駅地下コンコース内
[与太朗]
2012年1月31日 08:30
♪一杯のコーヒーから夢の花咲くこともある・・・ (藤浦洸詞)
百科事典によれば、コーヒーは江戸時代、長崎に来るオランダ人が持ち込んでいたが、日本人には受けなかったようですね。長崎勤務をしていた大田南畝(蜀山人)は、「焦げ゛くさくして味ふるに堪へず」と書き残しています。また、かのシーボルトは「熱い茶を飲み、交際好きな日本人がコーヒーに親しまないのは不思議だ」と記しているそうです。それが明治以降、喫茶店・カフェーが開業、だんだんと飲まれるようになり、統計では、今や日本人一人一週間に10杯以上、世界で第3位の消費量だそうです。
明治44年春3月、カフェーと銘打った最初の店「カフェー・プランタン」が京橋区日吉町20番地(現在の銀座8-6)に開店します。東京美術学校で黒田清輝や岡田三郎助らに学んだ洋画家松山省三(1884-1970)が、友人の画家平岡権八郎(1883-1943、竹川町の料亭花月楼の養子)と共同で、ヨーロッパのカフェーを手本に開業、「プランタン」(春の意)の名付け親は小山内薫、経営のために維持会員を募り(会費50銭)二階を会員に供しましたが、その会員には、二人が師事した黒田清輝・岡田三郎助・和田英作などの画家、森鴎外・永井荷風・高村光太郎・北原白秋・長谷川時雨・谷崎潤一郎などの文人、市村羽左衛門・市川左団次・市川猿之助・伊井蓉峰などの舞台人等々、錚々たる面々がそろい、一大文化サロンとなりました。
カフェーと名乗るのが初めてなら、手回しの蓄音機を置き、クラシックやダンスなどの洋楽をかける店も初めてでした。入口には葡萄棚、室内には松山省三が描いた大きな油絵がかけられたほか、白漆喰で塗られた壁に来客の即興、似顔絵などの落書きが描かれ、パリのカフェーに似た雰囲気をつくっていました。メニューの方は、コーヒーよりもむしろ洋食・洋酒が主役で、名物はホットサンドウィッチとマカロニで、酒は品ぞろえが豊富、当時日本では馴染みの少ない洋酒も用意されました。
これだけ著名人が集まるといろいろな逸話も残されています。鴎外の娘森茉莉は「白い帽子のお化けのような幼女」のころ、「黒マントの男」(鴎外)に連れられての帝劇の帰り、ここで生まれて初めて珈琲を飲みますが、手元狂って熱い珈琲を胸にかけてしまいます。(『記憶の繪 カフェ・プランタン』) また、酔った押川春浪が巴家の八重次(のちの藤蔭静樹)を伴った永井荷風と生田葵(葵山)に喧嘩を売ったのもこの店でした。(生田葵『其の頃のプランタンの燈』) プランタンはのちに、ライオン(尾張町角)やパウリスタ(南鍋町)などの後続に圧されてしまいますが、一般人にはやや敷居の高い店だと思われたことも一因でしょうか。
マカロニとモカの烟は立昇る
カッフェー、プランタンの窓の外
日吉町の通りの初夏の夜半(よふけ) (永井荷風『即興』より)
なお、のちに手を引くことになる平岡権八郎は三越呉服店の琵琶を弾く「上代美人」のポスター(1913)の作者です。また、松山省三の子は俳優五代目河原崎国太郎(1909-1990)、孫は松山英太郎(1942-1991)・松山政路(1947- )兄弟です。調布市の明西寺の墓地には省三・国太郎・英太郎の三代が一つ墓で永遠の眠りについています。
【写真上】現在の並木通り、プランタンのあったあたり。
【写真下】調布・明西寺 松山家の墓。
[滅紫]
2012年1月29日 08:30
三島由紀夫の「橋づくし」は昭和31年(1956年)「文藝春秋」発表の短編、三島が31歳の時の作品です。花柳界の女性4人(芸者2人、料亭の娘、その女中)が陰暦8月15日の夜に願掛けの「七つ橋渡り」をする話で、「願」を叶えるための条件は「同じ橋を2度渡らない」「誰とも口をきかず、話しかけられず」の2つ。さて、無事に渡りきることの出来るのは誰?
この「七つ橋渡り」というのは「満月の夜、誰とも口をきかずに七つの橋を渡ると願いが叶うという俗信が江戸時代に花街の女性の間で流行った」ものだそうです。作品発表当時の花柳界でまだ信じられていたのかどうか定かではありませんが、「金閣寺」「永すぎた春」「鹿鳴館」などを発表して当時人気作家だった三島の小説とあって発表後「七つ橋渡り」が流行したとか。「銀座ブロッサム」向いの三吉橋のたもとに碑があり、この「橋づくし」の一部と当時の橋の図があります。

これによると「この橋は築地川の屈曲した地点に楓川と結ぶ水路が開削され、川が三叉の形となったところに関東大震災後の復興計画の一環として昭和4年(1929)に架けられた。情緒ある風景も今は埋め立てられ高速道路と化し、陸橋となりました」
小説が発表された当時を想像しながら歩いて見ることにしました。小説当時だと築地本願寺まで1.2KM、15分程度の散歩だったはずですが。・・
まずは「話しかけられてもいけない」ので帽子、マスク、大き目のサングラス(コンビニ強盗スタイル!)で準備完了。さあ出発です。三吉橋の描写は次のようになっています。

「三叉の川筋に架けられた珍しい三叉の橋で橋の欄干は低く、三角形を形作る三つの角におのおの古雅な鈴蘭灯が立っている。三叉の2辺を渡ることで橋を二つ渡ったことになる。」

「築地橋は風情のない橋である。橋詰の四本の石柱も風情のない形をしている」
→かな子腹痛で脱落

「入船橋」の名は橋詰の低い石柱の緑か黒か夜目にわからぬ縦長の鉄板に白地で記された」
「毒々しいほど白い柱がゆくてに見えた。奇抜な形にコンクリートで気づいた柱に白い塗料が塗ってあるのである」
→小弓、知人に話しかけられ脱落
この暁橋と7番目の橋である「備前橋」は埋め立てられて「築地川公園」になっています。公園の入り口と出口に石柱が立っています。
本来は「暁橋」と「備前橋」の間に「緑に塗った鉄板を張っただけの小さな堺橋である」と説明されている「堺橋」があるはずなのですが見つかりませんでした。他の資料によると「築地7丁目2」あたりにあったものらしいのですが。・・
「緑の欄干に守られた備前橋は欄干も放物線をなして軽い勾配の太鼓橋になっている。三味線の箱みたいな形のコンクリートの柱に備前橋と記されその柱の頂に乏しい灯がついている。→満佐子、警官に尋問され返答して脱落。
結果7つ橋を渡れたのはひとりだけ。「願い」は叶ったのでしょうか。私は6つしか渡れず、写真撮りの都合上夜でもなく、おまけに渡り始める前に「願掛け」するのを忘れて!おりました。(今年も宝くじは当たりそうにない)
三島は「橋づくし」の小説発表後に西川鯉三郎のために舞踊台本も書いています。あの衝撃的な死から既に40年以上経ちました。亡くなった時はまだ45歳!歌舞伎の新作を沢山書いて「昭和の黙阿弥」になってほしかった!と橋の跡を歩きながら今さらのように残念に感じました。
[下町トム]
2012年1月25日 08:30
中央区の鉄道にまつわるお話、今日は第4回目です。
今回は少し視点を変えて今はもうなくなった駅名を探訪します。

まず最初は、都営・浅草線「日本橋」」駅です。駅入口は昭和通りに設置されています。地下通路を通じて、東京メトロの銀座線や東西線と繋がっていますが、〔高島屋〕や〔コレド日本橋〕などがあって賑やかな立地の2つの路線駅に比べると、浅草線の駅はほんの少し落ち着いた静かさを感じます。

それもそのはず、そもそも浅草線の〔日本橋〕駅は別の駅だったのです。浅草線(開業時は〝都営1号線〟と称しておりました)が1963(昭和38)年に開業した当時は〔江戸橋〕駅でした。
確かにすぐそばには〝江戸橋〟があって、駅名としてはそのほうが素直な気がします。
その後、東京メトロ(当時は〝営団地下鉄〟)との乗換客が増えたこともあり、一体的にする目的で、1989(平成元)年に〔日本橋〕に改称されました。
ちなみに、〔江戸橋〕という駅名は、遠く三重県津市に近鉄の駅の駅として存在します。東京から消えた駅名が今は遠くに存在するなんて不思議な気もします。
中央区内に存在したもう一つの駅としては〔西銀座〕駅があります。
東京メトロ丸ノ内線はほんの少しだけ中央区内を走っています。ちょうど数寄屋橋付近ですね。最近改装して〔阪急メンズ館〕と〔ルミネ〕が開業して賑わう〔有楽町マリオン〕が目前に目立つ数寄屋橋の交差点に、丸ノ内線の〔銀座〕駅の入口がありますが、まさしくここはかつて〔西銀座〕駅だったのです。

丸ノ内線が1957(昭和32)年に開通したときには〔西銀座〕駅としてスタートしました。既に銀座線の〔銀座〕駅があって、少し離れていたこともあったようです。
その後、1964(昭和39)年に日比谷線が開通したときに、同路線の〔銀座〕駅開業とともに、丸ノ内線の駅も〔銀座〕に改称されました。〔西銀座〕は、わずか7年弱のネーミングでした。

今でも高速道路の高架下のショッピングモールに〝西銀座〟の名前が残っています。
フランク永井さんの歌った流行歌に「西銀座駅前」というのがあります。佐伯孝夫作詞、吉田正作曲のこの歌は「ABC・XYZ」で始まるモダンな歌です。日本の高度経済成長の黎明期である1958(昭和33)年に発売されヒットしました。その前年に発売され大ヒットした「有楽町で会いましょう」とともに、きっとこのあたりの雰囲気が新しい感覚に満ちていたことがあったのでしょう。

廃止されてしまった都電の駅名(電停名)まで含めると、区内には様々な名称があったわけです。例えば、〔三原橋〕や〔越前堀〕など味わいある名称は風景が目に浮かぶようです。
今回は地下鉄の2つの消えた駅名をしのび、中央区の戦後の歴史を振り返ってみました。少しは懐かしい気持ちをお持ちにになっていただけたでしょうか。
次回もまた鉄道に関わるエピソードをお届けしたいと思います。よろしくお願いします。
[kimitaku]
2012年1月21日 08:30
築地市場には、多くの魚介類を扱う魚類部と、青果類を扱う青果部とがあります。
どちらも早朝から営業し、多くの客で賑わっています。
青果部は市場内の新大橋通り沿いに、魚類部は隅田川沿いにそれぞれ位置しています。
魚類部に比べれば、青果部は大声の飛び交うことなく、静かに営業されています。
魚類部は、世界最大の取り扱い規模を誇っています。
いま 築地市場は移転問題で、いろいろと話題にあがっています。昨年末からは、本格的に移転交渉も始まったようです。11月には都側の桟橋調査でも、いろいろあったとのこと。まだ、先は大変かも知れません。
ところで、市場では、魚介類を扱う場所を河岸と言います。河岸の権利はバブル期には2億円と評価されていました。
これは金融機関が、この権利を抵当して2億円を融資する価値があると査定した額なのです。いまはそれほどの価値は無く、数百万円が相場ではないか(関係者の話)と言われています。
ここで、市場の歴史を、江戸時代からひも解いてみたいと思います。
江戸城は中世、江戸氏の館跡に長禄元年(1457年)太田道灌が築城しました。
当時は、人口も3000人に満たぬようで、天正18年(1590年)徳川家康移封までは、市場は、芝浜:今の港区芝神明(立川談志の落語:芝浜で有名)、それに、皇居平川門の前(いまの毎日新聞社前)に四の日に市の立つ四日市場(主に干物類)がありました。
家康は、入城後、江戸振興策の一貫として、神田山を崩し、その土砂で日比谷入江を埋め立て、日本橋一帯を造成しました。 その際に北から南に流れる平川の流れを東に変え、それが日本橋川となりました。
日本橋が架けられてのち、日本橋川の両岸に市が立ち、各方面から、魚介類、青果、またあらゆる物資がもたらされ、江戸の町を潤しました。
また、青果類は、関東一円、特に川越方面から、荒川を下り、魚介類は、江戸湾、佃島、芝や、遠く行徳方面から船で運ばれ、隅田川を上り、日本橋川に入り、河岸に並びました。
次回に続きます。