[巻渕彰/写楽さい]
2009年11月 6日 12:00
前回に続き、「京橋」の話。京橋は江戸初期、日本橋と同じころの創架といわれている。京の都へ向かう橋だから「京橋」と名付けられそうだ。日本橋や京橋は幕府直轄の御公儀橋として擬宝珠が施されていたのが特徴である。
現在、南北両橋詰に中央区民文化財である、明治8年(1875)に建造した京橋の親柱が残っている。橋名揮毫は明治期の詩人・漢学者佐々木支陰〔南・北町奉行などを歴任した佐々木顯発(あきのぶ)長男。ちなみに人形町甘酒横丁にある菓子舗とご関係があるらしい〕。
南詰西側(銀座一丁目交番脇)の親柱には「きやうはし」と彫られ、「きやう」は「きょう」の旧仮名遣いであることは、判別できる。現代表記でないのが古き時代を語っている。
一方、北詰東側(警察博物館前)に残る漢字の親柱とその脇にある昭和13年(1938)設置の来歴銘板をよく見ると、「亰(=京の異体字、下記注参照)橋」と刻まれている(写真)。お気付きのように、「亰」は「京」の「口」部の中に「一」が入っている。つまり「口」でなく「曰」になっている異体字である(図参照)。
〔注〕最近のパソコンでは、「京」は口でない異体字の曰の字=「亰」もフォント処理できるが、Webサイトなど機種によっては異体字が扱えない場合がある。
明治前期には「東京」の「京」を「口」でなく「曰」とする異体字の「亰」と表していたことがあった。これを「トウケイ」と発音し、この時期を「東亰=トウケイ時代」と呼ばれた。江戸時代や旧幕に対する追慕から、「京=キョウ」という上方風を嫌い、「京=ケイ」つまり「トウケイ」と読み、さらに「京」でなく異体字の「亰」を使った人々が多くいたといわれ、当時の文学や随筆などにもよく見られる。
「京」の読み方は、「キョウ(キャウ)」と読むのは呉音、「ケイ」は漢音、「キン」は唐音。「京浜=ケイヒン」などは漢音の読みであり、「北京=ペキン」は唐音である。よって「東亰(京は口でなく曰)=トウケイ」と漢音の呼び方がされた。もう死語になってしまったのだろうか。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年10月28日 09:00
10月25日(日)午前10時から、明石町の
中央区 保健所・タイムドーム・あかつき公園などを会場に、「中央区健康福祉まつり2009」が開催された。
「出会いと ふれあいと 感動と」をテーマに、福祉と健康のまちを目指して、地域で生活するすべての方に、ふれあいと交流の機会を通じて、相互の理解と親睦を深めるのが目的で、毎年実施されている。主催は健康福祉まつり実行委員会、
中央区 、中央区社会福祉協議会。
当日は、区立郷土天文館(タイムドーム明石=写真上は1階入口)も無料公開され、常設展示室では来館者が中央区の歴史・文化展示に見入っていた。開催中の特別展「匠の生きたまち」(11月29日まで)にも多くの人が足を運んだ。
特別展会場内では午後2時から、「縫い紋の製作実演」が行われた。この実演は、江戸刺繍で着物などに家紋を縫い入れる「縫い紋」の技で、披露するのは
東京都認定伝統工芸士、東京都刺繍協同組合理事長を務める日本橋箱崎町在住の甲斐谷猛(かいや・たけし)氏(写真中央)。精細な縫い紋の技術に作業台を取り巻いている見学者は食い入るように身を乗り出し、職人の技を熱心に見つめていた。
次回の製作実演は「中央区まるごとミュージアム2009」イベントにあわせ、11月1日(日)午後2時から、「手植えブラシの製作実演」で江戸刷毛・東京手植えブラシ職人の田中三郎氏が予定されている。
同まつりの会場は屋外、屋内と広い範囲にわたり区内の各種組織・団体が参加した。中央区初の認定まち歩きボランティアガイドである「中央区文化財サポーター協会」も教育センター5階多目的ホール会場に出展した(写真下)。同会は毎年連続参加し、中央区のまち歩きの紹介や歴史資料の展示などを行っている。
今回は「50年前の中央区写真」約100点や3枚続きの錦絵図版の日本橋、両国橋など江戸・明治期の中央区関連6景などを展示。体験コーナーでは「ミニミニ半纏を折ろう!」を用意し、同会特製の折り紙を折ってもらい、来場記念のお土産にしてもらった。なかでも50年前の中央区各地の写真や半纏折り紙に来場者の関心が寄せられた。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年10月21日 09:00
中央区観光協会設立50周年記念事業の「まち歩き〈産業〉コース 日本橋・京橋編」が10月19日(月)10時から12時まで開催されました。このコースは2回目であり、定員の10人が参加しましたが、ほとんどの方が区外からで、参加地域の広がりが感じられました。秋の爽やかな天気のもとに、お江戸日本橋を出発です。(写真は上から訪問順)
最初は、「山本海苔店」さんで、お店の歴史をうかがいながら、海苔のお話には奥深さを知り、試食をいただき、同店ならではの海苔づくりにかける真髄の一端を味わいさせていただきました。
次の「八木長本店」さんでは、社長さんが自ら日本橋魚河岸の変遷、お店の移り変わりなど写真や地図を見せていただいて、ていねいに説明をいただきました。「かつおぶしは大事な蛋白源」と、熱心に語られる意気込みに感心させられました。
ここから京橋・八重洲通りまではしばらく歩く。途中の「高島屋東京店(日本橋)ビル」は今年6月に国重要文化財に指定されたところ。この中央通りの辺りは、江戸からの「通町(とおりちょう)」として賑わった場所でした。
3番目のお店は「京橋千疋屋」さんをお訪ねしました。著名な老舗のフルーツ専門店としてお洒落な店内。旬の新鮮なフルーツを頂戴しながらお店の歴史や果物のお話を聞かせていただきました。
最後は事務用品の「モリイチ」さん。1階から2階まで商品が並べられて豊富な品揃えでした。最近は、藍染めの袋物や、懐かしい万年筆などレトロな創作商品を手がけ、開発に意欲的であることが伝わってきました。
今回の参加者の声として、「個人ではなかなか回れないところを案内してもらって良かった」「おみやげまでいただいてうれしかった」「この催しは今年だけですか。毎年続けてもらいたい・・・」などで、好評でした。
それぞれのお店は今日の繁栄に至るまでに、歴史の積み重ねと地域・お客さまに根づいた信頼、そしてご商売への情熱があるからこそ、老舗の暖簾を守っていく確かな商売道が脈々と受け継がれていることが伝わってきました。
今回お訪ねした4店のお店の皆さまにはお忙しいところ、貴重なお時間を割いて、ご親切にご説明・お話、さらにおもてなしをいただいたことに厚く感謝申し上げます。ありがとうございました。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年10月14日 17:00
現在、中央区の「テレビ広報Vol.69」で以下の中央区観光協会イベントの模様が放映されている。
放送は10月11日から16日までの期間で、東京ベイネットワーク(株)と東京ケーブルネットワーク(株)のケーブルテレビで見ることが出来る。
放送時間など詳しくは中央区HP こちら>> をご覧ください。
また、同HPではストリーミング映像が提供されているので、ネットでも見られる。
*****
恒例の「第57回中央区観光商業まつり」は10月1日(木)からはじまり、11月4日(水)まで
中央区ぐるみの楽しいお祭りとなる。期間中は区内の商店街・商店会、デパートなどが参加して各種イベントが行われる。初日の10月1日にはオープニングセレモニーが矢田美英・中央区長の出席のもとに開かれ賑わった。
また、7月からはじまった
中央区観光協会設立50周年記念事業はいよいよ終盤を迎えた。これまでに多彩なイベントで区内が盛り上がり、
中央区に対する内外の関心を集めている。中でも「まち歩き〈文化〉コース」には多数の応募者が参加して、魅力の
中央区の街並み、歴史・文化を見聞しながら、まち歩きを楽しんでいる様子が見られた。
10月4日(日)には「浜町・東日本橋コース」が開催され、案内は中央区初の認定ボランティアガイドの「中央区文化財サポーター協会」が担当した(写真)。

*****
[巻渕彰/写楽さい]
2009年10月14日 08:45
「京橋」は日本橋と並び東海道の重要な橋だったが、撤去されて今はもうなくなった。現在、「京橋の親柱」は中央区民文化財として橋詰に残されているので、その面影に懐かしさを感じることがある。ところが、ここ以外にも京橋の遺構が存在しているのだった。こんなところに「京橋」があるのを、ご存じだろうか。
まずは、日比谷公園の中にある。「京橋」の欄干柱で橋名はないが、擬宝珠がついているのでそれとすぐわかる。明治8年(1875)架橋のものであるから、石橋なのだ。左右に欄干をつないだ溝穴があいている(写真上)。日比谷公園内にはほかにも歴史を伝える遺物などがいくつかあるので、探し歩くのも楽しい。
現在、本家の京橋跡には、この明治期改架の橋名が刻された親柱が2基残っている。漢字表記のものは警察博物館前の北詰東側に、仮名表記のものが銀座一丁目交番脇の南詰西側にある。
つぎは新宿御苑「新宿門」の脇、すでに閉館となった旧「みちの情報館」の跡地内である。こちらは大正11年(1922)建造のもので、照明設備がある「京橋」の親柱である(写真下)。敷地内に入ることができないので外側から眺めるしかないが、「京橋」「きょうばし」の橋名もはっきり読み取れる。
京橋跡には、これと同じ大正期の親柱が南詰東側に残されているが、上部に照明を設けるなど、近代的なデザインである。反対側の南詰西側に建つ銀座一丁目交番はこの大正期の親柱デザインを模して対称的に造られ、さらに、銀座煉瓦街をイメージしたものである、というのはよく知られている。
新宿の「みちの情報館」跡地には「新橋」の親柱も残っている。現在、銀座八丁目先の港区側にあるものと同じ親柱である。さらに、日本橋の道路元標プレートの複製もある。
[巻渕彰/写楽さい]
2009年9月29日 11:41
明石町に「電信創業之地」碑がある(写真上)。わが国で最初に電気通信が行われたのは、明治2年12月25日(1870年1月26日)で、この近くにあった東京築地運上所(跡地に碑石あり)と横浜裁判所(写真中央は、横浜地方検察庁前の記念碑)に設けられた「伝信機役所」間を結んだものであった。
明治2年9月19日(1869年10月23日)から工事が始まり、わずか3カ月ほどで、東京・横浜間の約32kmに電信柱593本を建てたという。およそ50m間隔に1本の割合で電信柱が建てられたのだから林立の感であっただろう。さらに、当時の記録写真を見ると、架線の本数がやたらに多いのが印象的だ。人々は、文字が電線を伝わって行き来するのが見えるのだろうか、と大騒ぎだったという、笑い話がある。
今でも電信柱と呼んでいるのは、これが事始めだったのだろう。当時は「電信」ではなく「伝信」といわれたようだ。「以心伝心」からか、「信(=まこと、真実)を伝える」ことからか、やがて「電気通信」の略として「電信」へと代わっていった。
このとき使われた通信機とはどんなものであったのか、明石町の碑石には何の記載もない。
それは、大手町の「逓信総合博物館」に展示されている。1837年にイギリス人のホイートストンによって開発され、フランス人のブレゲが考案した「ブレゲ指字電信機」である。実物は平成14年(2002)に国重要文化財に指定されたことで、現在展示されているのはレプリカである。
写真下が最初に使われた、その「ブレゲ指字電信機」である。左が送信機、右は受信機。双方に文字盤があり、イロハなど1文字1文字が刻まれている。送信機の文字盤の針を、送りたい文字に合わせて発信すると、受信機の針が時計のように回転して、送られてきた文字を文字盤に指す、という仕組みだそうだ。当時としては、モールス信号機のように符号を覚える必要がないので、画期的な通信機であった、という。
しかし、操作は簡単だったが、送信スピードが1分間に5、6文字程度と遅く、遠距離通信には適さなかったという。よって使用されたのは明治8年(1875)ごろまでの短期間であったそうだ。
運上所は現在の税関。この脇に通信役所が設置された。横浜には現在の横浜地方検察庁に隣接して
神奈川県庁舎がある。ここが今から150年前の安政6年(1859)、横浜開港にともなって「神奈川運上所」が開設されたところで、史跡になっている。築地、横浜ともに外国人居留地に近いし、入出港する積荷の情報交換などに通信が使われた模様である。いずれにしても、この文明の利器は近代化の象徴であったといえよう。